Masuk 村の老人――
「――今夜は、ここで休め」
宮守の低く湿った声が、宿の廊下に響く。
安堵の空気がわずかに広がる――が、その次の言葉がそれをすべて凍らせた。「――ただし、夜になったら決して外へ出るな」
空気が、ぴたりと止まる。
その言葉に、篝は無意識に息を止めていた。
宮守の顔には、冗談めいた色など微塵もない。 むしろ、言いたくもないことを無理に口にしているような、苦渋に満ちた表情だった。「絶対に、だ」
言い直したその声には、どこか怯えすらにじんでいた。
理由を問う者はいない。 誰もがその目に宿る『警告』を、言葉以上に深く感じ取っていたからだ。 篝は宮守の顔をじっと見つめる。 彼が言わなかった『何か』が、この村にはある。 そんな確信めいたものが、胸の奥に広がっていった。(やっぱり、この村は――何かを隠してる)
空気が重い。
時間の流れさえ、ここだけ淀んでいるような錯覚があった。「おいおい、なんだよそれ。化け物でも出るってか?」
その空気を割るように、ひとりの男子が笑い声を上げた。
「ビビらせすぎだろ、マジで。じいさん、そんな真顔で言ったら信じるやつ出るって」
冗談めかしたその言葉にも、宮守は一言も返さない。
無言のまま踵を返し、宿の奥へと消えていった。「……」
誰も追いかける者はいなかった。
重苦しい沈黙だけが、廊下に残される。 篝はふと窓の外を見やった。 そこには月も星もない黒い空が広がっていた。(本当に……この村には、何かが潜んでいるのかもしれない)
▽
「篝と同じ部屋なんて、すっごく嬉しい!」
部屋に入るなり、灯が嬉しそうに布団を並べる。
その声が、少しだけ場の空気を和らげた。 だが畳の感触はじめじめとして冷たく、障子の向こうには吸い込まれるような闇が広がっていた。 隙間から入り込む夜気が、体温を奪うようにひゅうひゅうと吹き込んでくる。「……私も、灯と一緒なら安心できる」
篝はそっと妹の隣に座り、微笑んだ。
その言葉は、慰めのつもりでも気休めでもなかった。 実際、灯がそばにいるだけで、胸のざわつきが少し静まるのだ。 こんな場所でさえ、彼女だけは自分を現実につなぎ止めてくれる気がした。「ねえ、手、繋いで寝てもいい?」
「……子供じゃないんだから」そう言いつつも、篝は灯の手を優しく握った。
その瞬間、灯がふにゃりと嬉しそうに笑い、瞼を閉じる。 細い指先の温もりが、冷えた掌にじわりと移ってくる。 それが、どこか救いだった。 離したくない、と一瞬だけ思ってしまうほどに。だが篝の胸の奥には、ずっと拭えない重さが残っている。
宮守の忠告。あの目。 そして、村で耳元に響いたあの声。 あれは迷信などではない。 では、あれは誰の声だったのだろうか。 静寂が、さらに深まる。▽
夜更け――宿全体が沈黙に包まれていた。
どこかの部屋から、生徒たちの寝息がかすかに漏れてくる。 だが、篝だけは眠れなかった。 霧の中で感じた『視線』。 屋根の上にいた気配。 そして今もなお、障子の向こうに潜むような微かな存在感。 何かが、この宿の外を歩いている気がする。 耳を澄ませば、闇の向こうに気配だけが滲んでいるようだった。その一方で、灯は隣で静かな寝息を立てていた。
その寝顔を確かめるたび、篝の胸は奇妙に落ち着く。 ここにいる。 ちゃんと隣にいる。 それだけで、得体の知れない恐怖から少し距離を取れる気がした。このまま朝まで、灯のそばにいた方がいい。
そう思う自分がいる一方で、胸の奥では別の声がざわついていた。 この宿はおかしい。 何かが起きる。 確かめなければいけない。 だが、灯をひとりにしたくない。 ほんの少しでも目を離した隙に、何かに奪われるような気がしてならなかった。その寝顔を確かめながら、篝はそっと身を起こそうとする――
「なあ、篝……起きてたのか」
振り向けば、襖の向こうから悠馬の顔が覗いていた。
「なあ、ちょっと探検しねぇ?こんな雰囲気、ホラー映画そのまんまだぜ?」
興奮した口調で囁く彼に、篝は眉をひそめる。
「……やめた方がいい」
「おいおい、マジか。ビビってんの?」冗談めかす悠馬に、篝は静かに首を振った。
「怖いとかじゃない。ただ、嫌な感じがする」
「『嫌な感じ』ねえ……まさか、霊感があるとか?」 「そういうんじゃないけど……でも、あの老人の忠告は本気だった。軽く見ない方がいい」真剣な篝の声に、一瞬だけ悠馬の笑みが揺らいだ。
だが、すぐにふっと肩をすくめる。「まあいいや。お前がつまんないのは、いつものことだしな」
そう言い残して、彼は足音も隠さず廊下へ出ていった。
「……待て」
反射的に声が出た。
追いかけるべきだ、と頭ではわかっていた。 このまま行かせればまずい。 そんな予感が、喉元までせり上がってくる。篝は立ち上がろうとした。
しかし――「お姉ちゃん、行かないで……」
灯の寝言まじりの声が、篝の袖を引き留めた。
「……っ」
振り向く。
灯の指先が、眠ったまま服の裾をつかんでいた。 か細い力しかないはずなのに、それは篝の足を止めるには充分だった。行かなきゃいけない。
でも、行けない。 悠馬を放っておくのは危険だ。 それでも、灯の手を振りほどくという考えが、どうしても浮かばなかった。 もし自分が部屋を空けた間に、灯に何かあったら。 その想像だけで、心臓が冷たく縮み上がる。 悠馬のことが気がかりなはずなのに、天秤は一瞬で傾いていた。 灯をひとりにする方が、ずっと恐ろしい。(……行けない)
その言葉は判断というより、ほとんど言い訳に近かった。
自分でもわかっている。 行こうと思えば行けた。 引き留める手をそっと外して、悠馬を追うことだってできたはずだ。 それでも、篝はそうしなかった。 仕方なく布団に腰を下ろし、篝は障子の向こうへ目を向ける。 胸の奥で、嫌な予感だけが膨らんでいく。 この選択を、あとで後悔するかもしれない。 そんな考えが一瞬よぎったのに、篝は灯の手を握り直すことで、それを押し込めた。その時、遠くの廊下の先で悠馬の足音がふいに『消えた』。
篝の背筋を、ぞくりと冷たいものが這い上がる。――今からでも追うべきか。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
そして――何かが、暗闇の中で『揺らいだ』。
結城の叫びは、ほとんど悲鳴だった。「篝ッ!!」 その声が、深い水の底へ沈みかけていた意識を強引に引きずり上げる。 篝の指先は影月へ伸びかけたまま空中で止まり、次の瞬間、はっと我に返った。「……っ、あ……」 息が乱れる。 胸の奥まで這い上がってきていた黒い紋様が、まだ熱を持ったまま脈打っている。 痛みは消えない――むしろ意識が戻ったことで、余計にはっきりした。 肩から胸元へ、皮膚の下を何かがじわじわと侵していくような不快感。 篝は反射的にその腕を押さえた。 影月の目が、わずかに細まる。 その表情の変化はほんのわずかだった。 だが、篝にははっきりわかった。 間違いなく苛立っている。 自分へではなく、あの声を飛ばした結城へ向けて、底の深い苛立ちが滲んでいる。「……また、あの男か」 低く吐き捨てるような声。 さっきまで篝へ向けていた甘さが、ほんの一瞬だけ剥がれた。 赤い瞳の奥で、獣めいた不機嫌が鋭く光る。 外では、結城がなおも何か叫んでいた。 結界越しで言葉は途切れ途切れにしか届かない。 それでも、篝の名を呼び続けていることだけはわかる。 宮守も札を打ち込み続けているのだろう。 社全体が低く軋み、赤布が揺れ、見えない力同士がぶつかり合う気配がしていた。「篝に触れるなと言ったはずだ」 影月が静かに呟く。 それは結城へ向けた言葉でありながら、同時に篝の耳元へ落とされた呪いみたいでもあった。 篝は苦しげに呼吸を整えようとする。 正気へ戻った、戻ったはずだ。 なのに、身体の奥へ入り込んだ熱と痺れは消えない。 影月の声も、さっきよりさらに深く残っている。 夢の残響なんかではない。今この場で直接、意識の内側へ流し込まれている。 影月は再び篝へ視線を戻した。 先ほどの苛立ちは、すでに表面から消えている。 穏やかですらある――だが、その静けさがかえって恐ろしかった。「……まだ、折れないか」「誰が……」「そう言いながら、さっきは手を伸ばしただろう?」 その一言が、篝の喉を締めつけた。 否定したい。 したいのに、指先がほんの一瞬でも影月へ向いた事実が、声を奪う。「違う……!」「違わないぞ?」 影月は篝の顎へ指を添える。 冷たい。 冷たいのに、その冷たさが火照った皮膚へ触れた途端、身体の奥の痛みがわずか
笑い声が、社の奥でひどく静かに響いた。 それを合図にしたように、空気が変わる。「……っ!」 篝が聖刀へ手をかけた瞬間、床に貼られた札が一斉に赤く燃え上がった。 火ではない――けれど火に似たものが走り、畳の上に複雑な紋を描く。 社全体が生き物のように脈打ち、壁も床も、天井から垂れた布も全てが一斉に篝へ牙を剥いた。「篝っ!」 結城の叫びが飛ぶ。 宮守が札を投げるが、白い紙片は途中で見えない壁に弾かれ、空中で焼け落ちた。 これは、結界だ。 しかも前とは比べものにならないほど濃い。 篝は反射的に灯へ駆け寄ろうとした。だが足元から黒い靄が這い上がり、足首へ絡みつく。 冷たくぬめるような感触に全身が総毛立つ。 振り払おうと身を捩ったその瞬間、背後から伸びてきた腕に腰を強く引かれた。「――捕まえた」 耳元で落ちた声に、心臓がひやりと縮む。 影月が、こちらに目を向けていた。 気配もなく背後へ回り込まれていた。 篝が振り返るより早く、影月の腕は完全に篝を囲い込み、逃げ道を塞ぐ。 乱暴に締め上げるわけではない。 けれど、一度捕らえたものを二度と離すつもりはないという静かな強さが骨の奥まで食い込んでくる。「放せッ!」「嫌だ」 低く囁く声は、奇妙なほど穏やかだった。 それが余計に恐ろしい。 社の奥で、紅月が楽しげに笑う気配がする。 灯は祭壇の前で揺れるみたいに座ったまま、こちらを見ていた。 さっきまで見せていた柔らかな笑みは薄れ、代わりに苦しげな揺らぎが瞳の奥に浮かんでいる。「篝!くそ、離れろ!」 結城が結界へ体当たりする。 鈍い音とともに弾き返され、地面へ膝をつく。 宮守も即座に札を打ち込むが、今度は社全体がそれを拒むように低く唸った。「駄目だ、分断された……!」 宮守の声が苦く沈
社へ足を踏み入れた瞬間、篝は息を止めた。 前に来たときと同じはずの場所なのに、空気の質が違う。 赤い布、揺れる灯火、壁を埋める札、床板に染み込んだ古い匂い――どれも見覚えがあるのに、今夜はそれらが妙に整いすぎて見えた。 まるで誰かのために、丁寧に舞台が用意されたみたいに。 ――その中央に、灯はいた。 花嫁衣装をまとい、祭壇の前に静かに座している。 白い衣は灯火を受けて薄く紅を溶かし、黒い髪が肩口に滑り落ちていた。 指先は膝の上で綺麗に重ねられ、背筋はすっと伸びている。 その姿だけ見れば、ひどく整っていて、ひどく穏やかだった。 穏やかすぎて、逆におかしい。「……灯」 篝の声が、思ったより小さく出た。 胸の奥で心臓が痛いほど脈打つ。 ようやく会えたはずなのに、喜びより先に背筋へ冷たいものが走っていた。 灯はゆっくりと顔を上げる。 その動作には、前に見たようなぎこちなさがなかった。 まるで夢の底から引き上げられかけているような危うさもない。 ただ静かに、滑らかに、篝の方へ視線を向ける。 そして――微笑んだ。「――篝お姉ちゃん」 その呼び方に、篝の足が止まる。 懐かしい声。 懐かしいはずなのに、どこか薄い膜を一枚挟んで聞いているような違和感がある。 抑揚はある、ちゃんと灯の声だ。 けれど、そこに灯そのものの熱がない。 まるでよくできた人形が、覚えた台詞を綺麗に口にしたみたいだった。 灯は小さく首を傾げる。「来てくれたんだね」「……灯」「うれしい」 笑顔は柔らかい。 だが、その柔らかさが篝にはひどく不気味に思えた。 灯はこんなふうに静かに笑う子ではない。 もっと無遠慮で、もっと感情が顔に出る。 嬉しいなら嬉しいで、駆け寄ってきて腕にしがみつくくらいの子だ。 今、目の
夜は、まるで最初から待っていたみたいに森へ降りてくる。 日が落ちるのを待っていたのではない。 寧ろ陽が沈んだ瞬間から、こちらがようやくあちらの時間へ足を踏み入れるのだと気づかされるような夜だった。 木々の隙間に沈んだ闇は深く、風さえどこか湿り気を帯びている。 宮守の隠れ家を出た時、篝は無意識に一度だけ背後を振り返った。 戻る場所を確かめたかったのか、それとも、今夜を越えられない予感を振り払いたかったのか、自分でもわからなかった。「行くぞ」 宮守の低い声が、夜気を裂く。 篝は短く息を吸い、頷いた。 隣では結城が黙って歩調を合わせる。 腰には札と縄、簡素な刃物。 戦う力は篝ほどない。 それでも、今夜ここへいるという意思だけは、誰よりも固かった。 三人は森の奥へ進んだ。 足元の落ち葉は湿り、踏むたびに鈍い音を返す。 前回、灯を取り戻せなかった夜と同じ道のはずなのに、今夜の森はまるで別の場所みたいだった。 木々の影が濃い。 遠くで鳴く鳥の声も、途中で首を絞められたみたいに不自然に途切れる。 篝は聖刀を抱えるように持ちながら歩いていた。 鞘の中の刃は相変わらず沈黙している。 だが重みだけは確かだった。 灯を助けるために必要なもの。 双子を断ち切るために必要なもの。 そして、自分の中の何かとも向き合わなければ抜けないもの。 今夜の目的ははっきりしていた――灯を取り戻し、そして儀式そのものを壊す。 もう一度だけではない。今度こそ終わらせる。「――ここから先は、声を落とせ」 宮守が足を止めずに言う。 その手には、すでに数枚の札が挟まれていた。 白い紙は夜の中で妙に浮いて見える。「社の周りには前より濃い結界が張られているはずだ。私はそれを崩す」「俺は?」「篝の補助だ。それと、無理に前へ出るな……お前の役目は篝が踏み込む道を切らさぬことだ」「……わかった」 結城の返答は短い。 けれど、その声に怯えはあっても迷いはなかった。 篝は前を見たまま、指先へ少しだけ力を込める。 影月と向き合わなければならない、避けては通れない。 あの男はおそらく、今夜も篝を待っている。 拒絶されるたびに喜ぶような、あの壊れた執着を胸に抱えたまま。 思い出したくもないのに、夜になると影月の声はひどく近くなる。 ――俺のところへ来
灯は、長い夢を見ているような気がしていた。 目を開けているはずなのに、何もかもが薄い膜を隔てた向こう側にある。 揺れる灯火も、畳に落ちる影も、遠くから聞こえる水音も、どれも少しだけ現実感がない。 身体は重く、指先ひとつ動かすにも、深い水の底でもがくみたいな鈍さがあった。 ――紅い。 部屋の中のものは、どれもひどく紅く見える。 壁にかかる布も、灯籠の火も、漆塗りの小箱も、目を凝らすたびに血の色を滲ませる。 白いはずの自分の袖口でさえ、灯の目にはどこか薄く染まって見えた。 花嫁衣装だと、誰かが言っていた気がする。 その言葉を聞いたとき、灯は最初、それが自分のことだとは思わなかった。 誰か別の、もっと遠いところにいる知らない娘の話をしているみたいだった。「灯」 柔らかな声が、耳元に落ちる。 灯はゆっくりと顔を上げた。 紅月がそこにいた。 白い髪、白い肌、そしてよく笑う口元。 見た目だけなら綺麗な人だと思う。 怖い顔をしているわけでもない。 怒鳴ったり、乱暴に掴んだりもしない。 寧ろ、最初からずっと優しかった。 気分が悪そうにしていれば水を飲ませ、髪が乱れれば指先で丁寧に梳き、眠そうにしていれば肩へ寄りかからせてくれる。 だからこそ、その優しさが怖かった。「また、そんな顔してるね」 紅月はくすりと笑った。 その指が、灯の頬へ触れる。 冷たい――ひどく優しい手つきなのに、その冷たさだけはどうしても慣れなかった。「怖い?」「……」 答えようとしても、うまく声が出ない。 灯は小さく唇を動かすだけで、すぐに力が抜けてしまう。 紅月はそれを責めない。 ただ、よしよしと宥めるみたいに髪を撫でる。「大丈夫だよ。怖がらなくていい」「……こわ、い」「うん。でも、すぐに慣れる」
夕暮れは、森の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。 昼のあいだに進められる準備は、もうほとんど残っていない。 宮守の札と、結城の手に馴染ませた縄と刃物、隠れ家の周囲の確認、退路の確認。 ひとつひとつは小さな作業でも、どれも夜を越えるためには欠かせないものだった。 だが、そのどれよりも重いものが、今は篝の膝の上にあった。 ――黒い鞘に収まったままの聖刀。 抜こうとしても抜けない。 柄に触れるたび、刃の重みだけは手のひらへ伝わってくるのに、肝心の刀身はまるで拒むみたいに沈黙したままだ。 篝は火の落ちた囲炉裏のそばで、その刀をじっと見つめていた。 宮守は向かいに座り、結城は少し離れた壁際で札を束ねている。 外では風が木々を揺らし、葉擦れの音が絶えず鳴っていた。「……やっぱり、抜けない」 篝が低く呟くと、宮守はわずかに目を細めた。「力を込めれば抜ける、というものではない」「ああ、それは何度も聞いた」「なら、まだ理解しておらんのだろう?」 宮守の言葉は淡々とした言い方だった。 篝は眉を寄せ、刀の柄を握り直す。「理解って何だ……灯を助けたい気持ちは本物だぞ?」「それだけでは足りん」 宮守の声は低く、揺るがなかった。「その刀は吸血鬼を斬れる。だが、ただ強く願うだけでは抜けない。怒りでも、憎しみでも、焦りでも駄目だ。もっと深いところへ届かねばならん」 篝は顔を上げる。 結城も手を止めて、宮守の言葉に耳を傾けていた。「もっと深いところって」「本当に【手放せないもの】と向き合い、それでも斬る覚悟を決めた時だ」 その一言が、小屋の薄暗い空気に重く沈んだ。 そしてその言葉を聞いた篝はすぐには返せなかった。 本当に手放せないもの。 そんなもの、考えるまでもない。 灯だ――ずっとそう思っていた。 灯を助けるためなら何