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第03話 夜の警告

Auteur: あおはな
last update Dernière mise à jour: 2026-03-08 05:22:37

 村の老人――宮守みやもりに導かれ、篝たちは古びた木造の宿へと足を踏み入れた。

 宿の外観は煤けた木板に覆われ、屋根は今にも崩れそうに歪んでいる。

 柱にはひびが入り、入口の木戸は軋むような音を立てて開いた。

 中に入った途端、湿った空気が肌にまとわりつく。

 畳にはカビじみた匂いが染みつき、廊下の壁には色褪せた掛け軸が斜めにぶら下がっていた。

 天井の梁には無数の蜘蛛の巣が垂れ、提灯の明かりがゆらゆらと揺れている。

 静まり返ったその空間に、生徒たちは思わず足音をひそめた。

 普段なら冗談や軽口が飛び交うような場面でも、誰ひとりとして声を発しなかった。

「――今夜は、ここで休め」

 宮守の低く湿った声が、宿の廊下に響く。

 安堵の空気がわずかに広がる――が、その次の言葉がそれをすべて凍らせた。

「――ただし、夜になったら決して外へ出るな」

 空気が、ぴたりと止まる。

 その言葉に、篝は無意識に息を止めていた。

 宮守の顔には、冗談めいた色など微塵もない。

 むしろ、言いたくもないことを無理に口にしているような、苦渋に満ちた表情だった。

「絶対に、だ」

 言い直したその声には、どこか怯えすらにじんでいた。

 理由を問う者はいない。

 誰もがその目に宿る『警告』を、言葉以上に深く感じ取っていたからだ。

 篝は宮守の顔をじっと見つめる。

 彼が言わなかった『何か』が、この村にはある。

 そんな確信めいたものが、胸の奥に広がっていった。

(やっぱり、この村は――何かを隠してる)

 空気が重い。

 時間の流れさえ、ここだけ淀んでいるような錯覚があった。

「おいおい、なんだよそれ。化け物でも出るってか?」

 その空気を割るように、ひとりの男子が笑い声を上げた。

 相楽悠馬さがらゆうま――クラスのムードメーカーで、悪ふざけの得意な男だ。

「ビビらせすぎだろ、マジで。じいさん、そんな真顔で言ったら信じるやつ出るって」

 冗談めかしたその言葉にも、宮守は一言も返さない。

 無言のまま踵を返し、宿の奥へと消えていった。

「……」

 誰も追いかける者はいなかった。

 重苦しい沈黙だけが、廊下に残される。

 篝はふと窓の外を見やった。

 そこには月も星もない黒い空が広がっていた。

(本当に……この村には、何かが潜んでいるのかもしれない)

   ▽

「篝と同じ部屋なんて、すっごく嬉しい!」

 部屋に入るなり、灯が嬉しそうに布団を並べる。

 その声が、少しだけ場の空気を和らげた。

 だが畳の感触はじめじめとして冷たく、障子の向こうには吸い込まれるような闇が広がっていた。

 隙間から入り込む夜気が、体温を奪うようにひゅうひゅうと吹き込んでくる。

「……私も、灯と一緒なら安心できる」

 篝はそっと妹の隣に座り、微笑んだ。

 その言葉は、慰めのつもりでも気休めでもなかった。

 実際、灯がそばにいるだけで、胸のざわつきが少し静まるのだ。

 こんな場所でさえ、彼女だけは自分を現実につなぎ止めてくれる気がした。

「ねえ、手、繋いで寝てもいい?」

「……子供じゃないんだから」

 そう言いつつも、篝は灯の手を優しく握った。

 その瞬間、灯がふにゃりと嬉しそうに笑い、瞼を閉じる。

 細い指先の温もりが、冷えた掌にじわりと移ってくる。

 それが、どこか救いだった。

 離したくない、と一瞬だけ思ってしまうほどに。

 だが篝の胸の奥には、ずっと拭えない重さが残っている。

 宮守の忠告。あの目。

 そして、村で耳元に響いたあの声。

 あれは迷信などではない。

 では、あれは誰の声だったのだろうか。

 静寂が、さらに深まる。

   ▽

 夜更け――宿全体が沈黙に包まれていた。

 どこかの部屋から、生徒たちの寝息がかすかに漏れてくる。

 だが、篝だけは眠れなかった。

 霧の中で感じた『視線』。

 屋根の上にいた気配。

 そして今もなお、障子の向こうに潜むような微かな存在感。

 何かが、この宿の外を歩いている気がする。

 耳を澄ませば、闇の向こうに気配だけが滲んでいるようだった。

 その一方で、灯は隣で静かな寝息を立てていた。

 その寝顔を確かめるたび、篝の胸は奇妙に落ち着く。

 ここにいる。

 ちゃんと隣にいる。

 それだけで、得体の知れない恐怖から少し距離を取れる気がした。

 このまま朝まで、灯のそばにいた方がいい。

 そう思う自分がいる一方で、胸の奥では別の声がざわついていた。

 この宿はおかしい。

 何かが起きる。

 確かめなければいけない。

 だが、灯をひとりにしたくない。

 ほんの少しでも目を離した隙に、何かに奪われるような気がしてならなかった。

 その寝顔を確かめながら、篝はそっと身を起こそうとする――

「なあ、篝……起きてたのか」

 振り向けば、襖の向こうから悠馬の顔が覗いていた。

「なあ、ちょっと探検しねぇ?こんな雰囲気、ホラー映画そのまんまだぜ?」

 興奮した口調で囁く彼に、篝は眉をひそめる。

「……やめた方がいい」

「おいおい、マジか。ビビってんの?」

 冗談めかす悠馬に、篝は静かに首を振った。

「怖いとかじゃない。ただ、嫌な感じがする」

「『嫌な感じ』ねえ……まさか、霊感があるとか?」

「そういうんじゃないけど……でも、あの老人の忠告は本気だった。軽く見ない方がいい」

 真剣な篝の声に、一瞬だけ悠馬の笑みが揺らいだ。

 だが、すぐにふっと肩をすくめる。

「まあいいや。お前がつまんないのは、いつものことだしな」

 そう言い残して、彼は足音も隠さず廊下へ出ていった。

「……待て」

 反射的に声が出た。

 追いかけるべきだ、と頭ではわかっていた。

 このまま行かせればまずい。

 そんな予感が、喉元までせり上がってくる。

 篝は立ち上がろうとした。

 しかし――

「お姉ちゃん、行かないで……」

 灯の寝言まじりの声が、篝の袖を引き留めた。

「……っ」

 振り向く。

 灯の指先が、眠ったまま服の裾をつかんでいた。

 か細い力しかないはずなのに、それは篝の足を止めるには充分だった。

 行かなきゃいけない。

 でも、行けない。

 悠馬を放っておくのは危険だ。

 それでも、灯の手を振りほどくという考えが、どうしても浮かばなかった。

 もし自分が部屋を空けた間に、灯に何かあったら。

 その想像だけで、心臓が冷たく縮み上がる。

 悠馬のことが気がかりなはずなのに、天秤は一瞬で傾いていた。

 灯をひとりにする方が、ずっと恐ろしい。

(……行けない)

 その言葉は判断というより、ほとんど言い訳に近かった。

 自分でもわかっている。

 行こうと思えば行けた。

 引き留める手をそっと外して、悠馬を追うことだってできたはずだ。

 それでも、篝はそうしなかった。

 仕方なく布団に腰を下ろし、篝は障子の向こうへ目を向ける。

 胸の奥で、嫌な予感だけが膨らんでいく。

 この選択を、あとで後悔するかもしれない。

 そんな考えが一瞬よぎったのに、篝は灯の手を握り直すことで、それを押し込めた。

 その時、遠くの廊下の先で悠馬の足音がふいに『消えた』。

 篝の背筋を、ぞくりと冷たいものが這い上がる。

 ――今からでも追うべきか。

 そう思った瞬間には、もう遅かった。

 そして――何かが、暗闇の中で『揺らいだ』。

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